手段が目的に?
こんにちは、はじめまして、HNMです。
15年ぶりにメルマガ執筆依頼をいただきました。異動によりCAEを使うこともなくなった元設計者のことも覚えていてくださり、ありがとうございます。
「手段が目的になっていませんか?」
社会人生活の中で、一度は耳にしたことあるこの言葉。でも最近、ふと私は思うのです。それって本当に“悪いこと”なのでしょうか?
設計検証のために始めた解析が、だんだん楽しくなってきて、条件を変えていろいろ試したくなる。。。
解析を担当する人であれば、一度ならず経験したことのある感覚だと思いますが、これは、単なる脱線ではなく、「手段が目的に育った」人間らしい現象とも言えると思うので「やらねば」から「やってみたい」へ。
心に余裕がある人間だからこそ、芽生えるこの感情は、効率一辺倒の状況では決して生まれません。
そして、新たな発見や学び、成長は、実はこのような“寄り道”の中から生まれることが多いのではないでしょうか。
あのミギーも言っていました。「心にヒマがある生物、なんとすばらしい!!」と。
「それこそが、人間の最大の取り柄である」と。
「でも、目的がブレてしまうのは、やっぱり良くないのでは?非効率なのでは?」と感じる方、それももっともで、正しい感覚だと思います。おそらく、「前提や状況によって意味が変わるだけ」なのかもしれません。
ちなみに、以下のように言い換えてみると、どう感じるでしょうか?
「解析という手段を繰り返すうちに、新しい興味や価値、問いに出会い、“元の目的とは異なる、新しい目的”が生まれただけなのだ」と。
前回のコラムで、KAJITAさんは「解析が目的になっていますが」と書かれていましたが、私には「OBとしての目的に変わっただけ」に思えました。というか、100歳で解析だなんて、素敵すぎます!